2012年もあと二日。
今一度、自分はなぜ講師になったのかを思い出しています。
4年前に講師になるチャンスをもらいました。
当時は出版前でしたし、社会的に大きな実績も無い。
(というか新卒で入社した会社を8か月で辞めてしまった
経歴に強いコンプレックスがあった)
難しい勉強をしてきたわけでもなく(というか全く勉強してなかったし)
知識もない。
人前で話をするような経験も無い人が本当に講師になって
いいものなのか・・・
そんな感情とずっと向き合って迷っていました。
その時にある方のススメでこんな本に出会いました。
- 街場の教育論/ミシマ社
- ¥1,680
- Amazon.co.jp
この本に書いてある一文に衝撃を受けました。
教師がひとりの個人として何ものであるか、ということは
教育が機能する上でほとんど関与しない。問題は教師と
子供たちの「関係」であり、その関係が成立しさえすれば
子供たちは学ぶべきことを自分で学び、成熟すべき道
を自分で歩んでいく。極端なことを言えば教壇の上には
誰が立っていても構わない。そうでないかと思います
(「街場の教育論」より引用)
そして、映画「二十四の瞳」を例として出されていました。
新任の大石先生は仕事の出来ない先生。
何があってもオロオロするだけ。在学中も卒業後も
教え子たちの困難苦境にあっても何も出来ない。
ただ一緒に泣くだけ。
それでもこの無能な先生が「理想の先生」として
慕われている。
こんなくだりでした。
それまで先生という立場の人は絶対的な知識と経験。
完璧な態度。聖人君子で無ければ出来ないものと思
い込んでいました。この本に書かれていたことは全く
真逆な例だったので衝撃的でした。
そこで考えました。
自分が講師になる可能性があるのであればどんな
講師になれるのか。
他の講師と差別化できるのはどんなところなのか・・・
そこで決意したことは、自分は世の中のどんな
講師よりも、受講生に向き合っていく講師になろう。
自分自身はいつも孤独で支えて見てくれる人が
欲しかった。
何度失敗しても抱き起して
「だいじょうぶ。出来るよ」
と繰り返し信じてくれる人が欲しかった。
もしも世の中にそんな人が一人でもいてくれたら。
きっとすごくチカラが出るだろう。
自分はそんな存在になろう。
受講生を信じてあげて
「大丈夫。出来るよ。やってごらん」
と何度も言ってあげる存在に。
それしか自分が出来ることは無いけれど、だからこそ
他のどんな講師よりも受講生の事を考える講師になろう。
そう思って講師になることを決意しました。
この初心を絶対に忘れてはいけない。
今、目の前にいる受講生達を信じ切る。
それだけを愚直にやっていきたいと思います。
2013年もよろしくお願いします。
コメント
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浅野先生、
私も同じ想いで患者さんに寄り添っています。
その結果が本になりましたが、それも患者が自立して自己管理していく過程でお役に立ちたいと想ったからです。
浅野先生の後に続きたいです。
勝手に後姿を見ております。
来年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。
隣のクラスののぞき見生徒より
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>健招堂さん
健招堂さんにじっくり見てもらえる患者さんは
しあわせだと思います。
出版にもそのような意味があったのですね。
またお話聞かせてください。来年もよろしくお願いします。
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「大丈夫、出来るよ!」
ウソでもそう言ってもらえると嬉しいんですよねー。
原稿に煮詰まると、いつも浅野さんの顔を思いだします。
ところで、
年越しそばは「ぺヤング」ですよね?笑
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>ひろぽんさん
おはようございます。
支えになれるような存在でありたいと
思っています。
ひろぽんさんも今、執筆に生みの苦しみ
を味わっているのでしたよね。その向こう側の
読者さんの笑顔って最高ですのでがんばって
頂きたいです。年越しそばは・・・今年は青森で買って来たラーメンなんですよ